ジャニス・イアンの思い出 [音楽(ポピュラー)]
長い雨の時期が終わると、春と言うより一気に初夏を思わせる陽気になってきました。つい2週間ばかり前はまだまばらに咲いていた営農のレンゲ畑がいつの間にかほぼ満開になっていました。
我が家の休耕地はさながら雑草の花の品評会のようです。花と花の間を待ちきれなかったかのようにシロやキやベニの蝶が飛び交い、蜂の羽音があちこちで唸りを上げています。まさに命萌える季節到来ですね。
この前、cafelamamaさんがご自身のブログで「岸辺のアルバム」を紹介されていました。そこではコメント欄が閉じられていたのですが私自身の中で「岸辺のアルバム」には思い出があったので、勝手に頭の中でコメントしていたことを今日は展開してみようかと思います。
「岸辺のアルバム」は山田太一脚本のTVドラマです。私はすべて見ていたわけではありませんが、山田太一脚本のドラマは、わりと熱心に見ていた方だと思います。中でも印象に残っているのは「それぞれの秋」「岸辺のアルバム」「不揃いの林檎たち」などです。
岸辺のアルバムでは、良妻賢母の象徴のような八千草薫が不倫をする設定だったのが何ともショックでした。その相手が竹脇無我だったのも覚えています。主人公でかつ語りの進行が高校生役の国広富之でした。八千草薫の夫が杉浦直樹までは覚えていて、国広富之の姉が思い出せませんでした。中田喜子だったそうです。
cafelamamaさんは「岸辺のアルバム」をリアルタイムではなくDVDボックスでご覧になったそうです。それに比べて私はリアルタイムで見た、と思っていたのですが、ウキペディアで調べてみると1977年放送だそうです。
1977年というと私はまだ東京でしたし、テレビを持っていなかったので連続ドラマを見る環境にありませんでした。と言うことは私は、再放送を見たのでしょうか。それとも関西地方は放映時期がずれていたのでしょうか。
なぜ、私が1980年頃リアルタイムで見たと勘違いしたかというと、cafelamamaさんも紹介されていますこのドラマの挿入歌、Will You Dance?の作者で歌手のジャニス・イアンにあります。
それまで私にとって、ジャニスというとジャニス・ジョプリンだったのですが、たぶんこのドラマの挿入歌のもの哀しげな曲調と彼女のピュアな歌声に惹かれてミュージックテープを買ったのだと思います。
東京暮らしだった私は車の免許を必要としなかったので持っていないどころか一生取らなくても良いとまで思っていました。しかし、田舎に帰ってくると車なしではとても暮らせないことが分かりました。教習所に通い、自動車運転免許を取得しました。
免許取り立ての私は、休日になると武者修行と称して、当てもなく車を駆けました。県内はおろか、京都や奈良へも足を伸ばしました。
車はもちろん中古車でした。スバルで今は亡きレオーネという車種です。有名な水平対向4気筒で、今では当たり前ですが当時は先進のFF(前輪駆動)でした。しかしパワーステアリングがありません。ハンドルの重いこと重いこと、特に据えきり時は腕が痺れました。
そのレオーネでのドライブのお供がジャニス・イアンのミュージックテープだったのです。この頃、ジャニス・イアンはちょっとブームだったらしく、このミュージックテープにはWill You Dance?、At Seventeenの他にも「グッバイ・ママ」の主題歌Love Is Blindなどが収録されていました。
他にもエアチェックしたテープ持っていたと思うのですが、初心者の私はテープを交換する余裕がなかったのか、行けども行けども彼女の歌声をエンドレスで聞いていたような記憶があります。
のんびりと田舎道を走っているときはもちろんのこと、混み合った都会の交差点を冷や汗をかきながら右折するときも、いつも車内にはジャニス・イアンの歌声が流れていました。
それから何年もして、すっかり運転に慣れた頃でも、たまにジャニス・イアンのテープをかけると、当時の記憶というか、武者修行と称してあちこちを気ままにドライブしていた頃の雰囲気が蘇ってくるのでした。
若い頃恋をしているときに流行っていた曲を聞くとその当時の気分が蘇るのに似ているのですが、ジャニス・イアンの歌の記憶は甘くも苦くもなく、ゆりかごで揺られているような楽しい雰囲気だけが蘇ってきます。
初心者でしたから、不安や緊張もあったのでしょうが、やはり楽しかったのだと思います。それまでの私の移動手段と言えば、公共交通機関か徒歩、せいぜい自転車に限られていましたから。
自由さと行動範囲の広さが比べものになりません。ある桜の時期が過ぎた頃のことでした。ドライブしていて人気のない狭い道に迷い込んでしまいました。薄暗い山の中、平行して川が流れていました。
道幅が狭くUターンすることもできません。不安な気持ちで車を走らせていると、突然、川に覆い被さるようにして咲く満開の桜に出会いました。とっくに桜は過ぎたものと思っていましたので、また出会えた喜びとその静かな美しさに感動しました。車の免許を取って良かったと思った最初の瞬間でした。
ジャニス・イアン、今回初めて知ったのですが1951年生まれ、私と同い年でした。後から買ったレコードやCDを室内で聞いても、運転を覚え立ての当時の雰囲気が蘇ってくるような気がします。
ちあきなおみ考 [音楽(ポピュラー)]
由紀さおりがアメリカで話題になったというニュースが流れたのは去年でしたか一昨年でしたか、もっと前でしたか。懐かしくて「夜明けのスキャット」や「手紙」をYouTubeで探して聞いていたら、おすすめ欄に懐かしい昭和の歌が並んでいました。
その中に「アカシアの雨が止む時」があったのでクリックしてみました。この曲は私が小学6年の頃に流行った西田佐知子の歌です。西田佐知子はその後、関口宏と結婚して表舞台には立たなくなり、この歌を聞く機会もなくなりました。
カバーしているのはちあきなおみなのですが、聞いていると西田佐知子本人が歌っているのではないかと思えるところがありました。それくらいちあきなおみの歌唱は似ていてうまかったのです。
それから次から次へと懐かしい昭和の歌をちあきなおみのカバーで聴き続けました。レパートリーは演歌から抒情歌謡まで幅広くて、しかもどの歌も元歌の雰囲気を残しながら、同等かそれ以上に歌って聞かせます。時間も忘れてどれくらい聞いたでしょうか。気づいたら、すっかりちあきなおみの虜になっていました。
ちあきなおみをよく知っておられる方は何をいまさらと言われると思いますが、私は今まで「四つのお願い」と「喝采」しか知りませんでしたから、再発見、この実力には正直驚きました。
ちょっと色気のあるお姉さん、コマーシャルでの面白いキャラクターもそういえば、見たことがあるなぁくらいで、もうここ二、三十年すっかり忘れていたと思います。コロッケのものまねが有名ですが、そのコロッケも最近はやらなくなりました。知っている人が少なくなってきたからではないでしょうか。
初めは有名なカバー曲、そのうちちあきなおみの持ち歌である演歌や歌謡曲をYOUTUBEにある限り次から次へと片っ端聴き続けました。それがまた、半端ではないたくさんの歌が画像付きでアップされています。
いつしかYOUTUBEでは飽き足らず、CDや中古CDボックス、中古レコードなどを買いまくっていました。そればかりかちあきなおみに関する書籍までも、探して古本を手に入れました。
これがその本です。
この本を読んで、それまでほとんど何も知らなかったちあきなおみの生い立ちや、歌手デビューの苦労、その他芸能界でのこと、結婚、事実上の引退の経緯などを知ることが出来ました。
この本の中でも彼女の実力、歌の巧さについては何度も語られています。特筆は、あの美空ひばりも一目置いていたということでしょうか。
彼女は母親の影響で4歳ころからステージに上がっていたそうです。米軍キャンプやクラブ、キャバレーなど主にドサ回りで10代を過ごしています。
彼女の存在はその世界でも有名だったそうです。1969年、アイドル全盛の時代に22歳でやっとレコードデビューを果たすのですが、満を持したデビュー曲「雨に濡れた慕情」は思ったほどヒットしなかったそうです。
レコードデビューするまでに、ドサ周りのときの悪癖を直すために、作曲家が西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」を渡してレッスンさせたという逸話を読んで、はたと納得が行きました。
熱心にレッスンするうち西田佐知子の声色まで似せるようになったのでしょう。そしてその歌を、私は今回の再認識の経緯と成るしょっぱなに聞いたのでした。
下積み時代の苦労が、後に誰もが知る「喝采」の大ヒットにつながったのだと思いますし、ただ歌が上手いだけではない歌唱力を彼女にもたらせたのでしょうね。
ちあきなおみの声は女性としては太く低い印象を持っていたのですが、「さだめ川」など演歌の曲などで高音部、声を張り上げると、高い声がしびれるほどきれいに聞こえてきます。
歌謡曲、演歌、ジャズ、シャンソン、ファド、なんでも器用にこなすのですが、一時期彼女は演歌を拒んでいたことがあったそうです。ちあきなおみイコール演歌と思っている人もいるでしょうね。
彼女の歌を聞き続けるに連れ、ちあきなおみがジャズを歌ったらどんな風だろうなと思ったり、なんとなくその歌の巧さからビリー・ホリデーを重ね合わせたりしていました。
「ちあきなおみ 喝采 蘇る。」によると、彼女はなんと舞台でビリー・ホリデーを演じたのだそうです。1989年「LADY DAY」というビリーホリデーの愛称をタイトルにした一人芝居を演じ、かなりの熱演と反響だったそうです。ただ惜しいことに、舞台の映像とか音楽が残されていないのが残念です。
ちあきなおみが表舞台から姿を消し、歌わなくなってもう久しいですね。なんでもご主人が亡くなられてから歌わなくなったのだそうです。このへんは、彼女の持ち歌「冬隣」とリンクするところがあるのですが、歌の方が先に発表されています。歌が彼女の人生を先取りしてしまったということでしょうか。
彼女が歌わなくなってから出た6枚組CDボックス「ねぇ、あんた」が一万円もするのに累計10万セット以上も売れ、ちあきなおみ再評価に火を付けたそうです。
たまたま中古店で見つけて手に入れました。
2000年代に入ってからNHK-BSでちあきなおみ特集番組が再放送を含めて6回もオンエアされたそうです。2007年にはテレビ東京の「たけしのだれでもピカソ」で同じく特集番組が放映され、こちらも好評、高い視聴率を弾きだしたそうです。
ちあきなおみ待望の空気に、NHKは紅白の目玉に彼女を復活させようと海外でのボイストレーニングまで考えたそうですが、残念ながら実現しませんでした。彼女の歌い方だと、まだちゃんと歌えるそうですが、もう67歳、復活は無いでしょうね。
美空ひばりなどと違って、彼女はまだ生存しているのでファンが復活を願う気持ちもわかる気がしますが、彼女は幼い頃から地方周りでさんざん歌ってきたので、普通の人より少し早く、一生分の歌を歌ってしまったのかもしれません。私はなんとなくそんな風に思ってます。
ちあきなおみを半年ほど、集中的に聞いて来ましたがあまり熱中しすぎたために、一時期ご馳走を食べ過ぎたあとのような状態に陥りました。この文章も下書きのまま長い間放置していました。日付を見るとちょうど一年前の6月24日になっていました。
聞きはじめのうちは声を張り上げ、歌い上げる彼女の歌いっぷりにすっかり魅了されていましたが、聞き慣れてくると肩の力を抜いてしっとり歌う「冬隣」や「黄昏ビギン」「雨に濡れた慕情」「円舞曲」「星影の小径」などの良さもわかってくるようになりました。
もう少しのところで、ちあきなおみという稀代の歌手を、「4つのお願い」「喝采」タンスにゴンのコマーシャル、コロッケのモノマネしか知らないまま過ごしてしまうところでした。今回の出会いは私にとってラッキーだったと思います。
今は、このアルバム「待夢」を、オルトフォンMC20に真空管アンプそしてCelestionUL-6の組み合わせで聞くとき、最高の気分に浸れます。
このアルバムはポルトガルの民族歌謡ファドを歌ったものです。YouTubeはそのアルバムから「霧笛」です。
夏野菜 [音楽(ポピュラー)]
LET IT BE [音楽(ポピュラー)]
秋の初めは気持ちの良い滑り出し、さわやかな日が数日続きました。昨日あたりから少し蒸し暑くなって、今日は天気予報通り雨になりました。
腰痛と台風で遅れていた秋冬野菜、ようやく種を蒔きました。去年は17日に蒔いてそれでも遅かったのに、今年はさらに遅くなってしまいました。ハクサイなどは種まきが遅いと結球しないのだそうです。夏野菜に比べて秋冬野菜、私の中ではもう一つ盛り上がりません。
相変わらず金欠ですが、給料が出たあとぐらいはちょっと散財してみたくて、中古店のレコード売り場やジャンクオーディオを物色してみましたがめぼしい物は見あたらず、結局書店で雑誌を1冊買っただけでした。オーディオ復帰してから、続けて買っているanalog誌です。
もっとも若い頃は、スイングジャーナルのオーディオコーナーやステレオ誌、ステレオサウンド、FM誌のオーディオコーナーを貪るように読んでいたのに、今はぱらぱらとページをめくるだけ、季刊であるにも関わらずすべて読み終わる前に次の号が発売されてしまいます。
ついでに妻からCDレンタル2枚無料券をもらっていて、その期限が今日だったのでCDレンタル店にも行ってきました。ジャズはもうあらかた借り尽くしています。クラシックもベスト盤が幅をきかせています。
ポピュラーの棚、しかし、私が所望するミュージシャンは古すぎるかマイナーすぎて、見つかりません。リンダ・ロンシュタットでさえ、ベスト盤が一枚きりでした。
とりあえず、それを一枚借りることにします。あと一枚何にするか、ロックポップスの棚の真ん中中段には、ビートルズのCDが数枚面陳列されています。いずれも見慣れた懐かしいアルバムジャケットです。
私は若い頃、ビートルズのレコードは青盤と赤盤ですませていました。後年、CDでサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドとベスト盤のビートルズ1を買っただけです。
持っていないくせに、真正面にある「レット・イット・ビー」のジャケットが懐かしく迫ってきて、少し躊躇しましたが他に適当なCDも見つからなかったので借りることにしました。
家に帰って、まず聞いたのはリンダ・ロンシュタットではなく、ビートルズでした。それにしても、ビートルズ1でも体感していましたが、セレッション3で聞く、ビートルズはいいですね。暖かいボーカル、深く幅のあるギターの音色、軽く弾むドラム、さすがです。
元々はクラシック音楽の再生に長けていたローラ・セレッションですが、1980年代末、若いエンジニアにロックが聞けるスピーカーを作らせたのがセレッション3です。
セレッションは昔からギターアンプのメーカーとして有名ですから、その小気味いい再生音には定評があります。セレッション3を手に入れてから、ポピュラーを聞く比率が大きくなりました。
ちなみに、日本の歌謡曲とか演歌も、実に気持ちよく鳴らしてくれます。と言うか、優れた歌謡曲や演歌こそ、優れた装置、スピーカーで聞くべきだと言うことがよくわかります。
おっと、今日はセレッション3の話ではありませんでした。「レット・イット・ビー」のお話でした。「レット・イット・ビー」というと、私は大学時代の寮生仲間であった、tamotoという同級生を思い出します。
彼は、同級生と言っても私より1歳か2歳年上でした。高校を出てすぐ自動車工場に就職したのですが、トイレにも自由に行けない所は人間の働くところではないと、退職して大学に入り直したのです。
たいへん個性的な人物でしたね。髪の毛は縮れ、肌はニキビのあとで荒れ、顔の作りが皆大きくて、とくに分厚い唇、そして大きくよく動く口を持っていました。
水島新司さんのドカベンという漫画が流行ったとき、何時も葉っぱを銜えている岩城というたいへん個性的な登場人物がいましたが、私は岩城を見るたびにtamotoを思い出しました。
tamotoは個性的な風貌だけでなく、その言動もかなり個性的で、あんまりうるさいので他の寮仲間からは敬遠されていました。
1969年から1970年の間のことです。彼は無類のビートルズ好きでした。私は詳しくはなかったのですが、ちまたでは噂が流れていたのでしょうね。彼は、ビートルズが解散してしまうと、繰り返し嘆いていました。
寮の廊下を、最後のアルバム、「レット・イット・ビー」を小脇に抱えて、サビの部分のリフレイン、~レット・イット・ビ~、~レット・イット・ビ~と大きな声で歌いながら歩いていました。私は、いまだに彼が歌うレット・イット・ビ~の最後のビ~をやたら強調して引き延ばして歌う彼の歌い方が耳にこびりついています。
もう一つ、彼のことで忘れられないのが、marikoちゃんと言う女性の名前を口癖のように呼ぶことでした。酒など飲んで帰ってくると、周囲にはばかること無くその名を叫んでいましたから、寮仲間からはそうとう疎んじられてました。そんな中、私は比較的彼の話を聞いてやった方だと思います。
marikoちゃんは彼の高校時代の同級生で、初恋の人でした。一度写真を見せてもらいましたが、tamotoには不釣り合いな可愛い子でした。
もちろん、彼は彼女の名を呼び、彼女が結婚するかも知れないと、いつも恐れていたくらいですから、立派な片思いでした。ただ、そのとき彼の寂しい心を埋めるのは、初恋のmarikoちゃんしかいなかったのだと思います。
若いと言うのに、恋人もいない味気ない日々、彼はmarikoちゃんを思うことで、自分の心のバランスを取ろうとしていたのだと思います。その辺の所、私は彼のように名前を叫んだりはしませんでしたが、似たり寄ったりの境遇だったので、彼の気持ちがよくわかる気がしました。
ある朝のことでした。私が部屋で寝ていて物音がしたので目を覚ますと、いつの間に入ってきたのか、tamotoが部屋の中にいて、私の椅子に座ってじっと机の上を見つめていました。
私は上半身を起こして、何を見ているのか聞きました。
いや、いい詩やな、と思って、と彼は机上から目を離さずに答えました。
前夜、私は遊び事のような詩をノートに書き殴ったまま、寝てしまったようです。で、その詩が彼の目にとまり、わかるというのは、彼がつい最近、marikoちゃんに失恋したからだと思いました。
それは詩とも言えないほどの、短い言葉の連なりでした。
どこへ行くの?
あの空へ
ところで、もうお気づきかも知れませんが私のニックネームそらへいは
ここから取ってます。ちなみに名字を聞かれると、当然阿野になります。