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しあんくれーる [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 今年はいつまでも寒さが続いて、桜の開花が遅れました。最近になってようやく暖かい日が続くようになってきたと思ったら、もうゴールデンウィークなんですね。桜の開花とゴールデンウィークとの間隔、例年にない短さにちょっと驚いています。

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 今日は久しぶりにジャズ喫茶ネタです。と言っても、先週の続き、「二十歳の原点」の著者、高野悦子さんがよく通っていたジャズ喫茶「しあんくれーる」です。前回、マッチの写真も掲載してしまっているのですがもう少し続きを・・・

 しあんくれーる a.JPG Champ Clair b.JPG

 店名の「Champ Clair」「しあんくれーる」は、フランス語の「明るい場所」の意味と文字通り「思案に暮れる」をかけているのだそうです。なかなかしゃれた見事な店名ですね。

 オーナーは星野玲子さん。雑誌のインタビューか何かで、高野悦子さんがいつも座っていた席のことを喋っている記事を読んだことがあるような気がするのですが、古い記憶、定かではありません。

 「しあんくれーる」の建物はレンガ色の二階建てで、一階がクラシック、二階がジャズと別れていたようです。彼女は闘争と、アルバイトの合間に、ここで傷ついた羽を休めていました。

 日記の中にショパン「夜想曲」がかかるのを大事なものを待つように待つ場面がありました。そのお店が「しあんくれーる」の一階のクラシックを聞かせるところだったのかどうか、文面からはわからなかったのですが。

ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第8番 「悲愴」  ウィルヘルム・ケンプ演奏のベートーベンのピアノソナタ「悲愴」が無性に聞きたいと書かれているところがあって、読んだ時はちょっと驚きました。私が最初に買ったクラシックのレコードがウィルヘルム・ケンプのベートーベンピアノソナタ集で、「悲愴」もその中に含まれていたのです。 

 彼女はピアノが弾ける人だったようで、アルバイト先のホテルにピアノが置いてあるのを見つけて、嬉々として弾く場面が印象に残っています。

  一方、ジャズではスティーブ・マーカスの名前が頻繁に出てくるのですが、残念ながら私は知らないミュージシャンです。ジャズ・ロックというのだそうでYouTubeで聞くと、なかなか迫力のあるテナーでした。傾向が似ているのか、アルバート・アイラーの名前もありました。

 ゴスペル・シンガーのマヘリア・ジャクソンも好きだったようです。マヘリア・ジャクソンは皮肉にも「二十歳の原点」が出版された1971年に初来日しています。私もその迫力のある歌声をFMで何度となく聞きました。 

 「しあんくれーる」は「二十歳の原点」がベストセラーになって、全国的にも有名なジャズ喫茶になるわけですが、元々京都では人気のある有名なお店だったようです。京大や立命館大学の学生がよく往来する立地にも恵まれたところにありました。

 また星野玲子さんは、単にジャズ喫茶のオーナーであったと言うだけでなく、マイルス・デイビス、アート・ブレイキー、セロニアス・モンクなどとも親交のあった方でした。

 昔、スウイングジャーナルか何かで星野さんとマイルス・デイビスが大変うち解けた様子で写っている写真を見たことがあります。小柄でキュートな感じのする美人でした。

 私が持っている「ジャズ日本列島」の1975年版でのアンケートで開業20年目とあるので、1955年頃オープンしているかなり古いお店です。今はもう無いのが残念ですが。

Image0020.JPG 「しあんくれーる」の入り口

季刊ジャズ批評別冊「ジャズ日本列島」から引っ張り出した白黒写真のため、見にくくて申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 同じく「ジャズ日本列島」から引っ張り出した店内の様子を写したもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は実家が滋賀県なので、高校生の頃からよく京都へ行っていたのですが、20代の頃は生活の拠点が東京だったため、せっかく実家の近くにありながら「しあんくれーる」に行ったのは、一度っきりでした。従って、これらの写真を見てもほとんど思い出せません。

 それどころか、いつ行ったのかも思い出せないありさまです。一時帰省していた頃、「二十歳の原点」を読んで行ったのか、それとももっと後半、完全に東京を引き払ったあと、田舎に帰ってから「ジャズ日本列島」を頼りに行ったのか思い出せません。ネットで調べてみると、「しあんくれーる」は、1980年代後半頃まであったそうです。

 「ジャズ日本列島」によると、オーディオの構成もアンプがマッキントッシュMC2105C-28、プレーヤーがデュアル1229、スピーカーがJBL4530K、という凄いような組み合わせです。毎月第三日曜に、久保田高司解説のレコードコンサートなども開かれていたようです。

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 「ジャズ日本列島」に掲載されていた広告です。この広告によると熊野神社電停前にはREMAという姉妹店があったようです。熊野神社近くのジャズ喫茶YAMATOYAは今もまだ健在です。当時、このあたりはジャズ喫茶が多かったんですね。 

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 今日は本来ですと、Cのアルファベットが名前に付くジャズミュージシャンなのですが、オーナー星野さんと親交もあり、高野悦子さんもお気に入りだったアート・ブレイキーの「チュニジアの夜」を選びました。こじつけると、店名Champ ClairにはCが2つも入ってます。

 

 

《追記》

Image0028.JPG 若い頃、たくさん買ったスイングジャーナル誌やオーディオ誌もみんな捨ててしまっているのですが、スイングジャーナル社のADLIB誌、1973年秋号が創刊号のため残っていました。

 特集は「マイルス・デイビスのすべて」となっていて、雑誌全編がほぼマイルス・デイビス関連記事やレコード情報で埋まっています。

 その中に、植草甚一、中村とうよう、油井正一、鍵谷幸信と言ったそうそうたるメンバーに混じって、星野玲子さんがアドリブ誌の誌上座談会に参加されています。

 他の方たちが、主にマイルス・デイビスの音楽について述べている中で、星野さんは、マイルス・デイビスのひととなりを語っておられます。

 残念ながら、雑誌をくまなく見てみましたが、マイルス・デイビスとのツーショット写真は見つけられませんでした。

 

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下北沢「マサコ」 [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 20歳の時、上京して初めて住んだのが小田急沿線の梅ヶ丘という小さな町でした。駅前にお店はあるものの商店街と言うほどのボリュームもなく、地方から遊びに来た友人が、ここは本当に東京かと言うくらい静かな住宅街でした。

 小田急に乗れば新宿まで15分ほどだったと思います。途中、下北沢で井の頭線に乗り換えると渋谷へも簡単に行くことができる極めて立地のよいところでした。

 当然、新宿や渋谷に出かけましたが、東京初心者の私には、新宿や渋谷はあまりに大きすぎて、初めの頃は中継地点である下北沢をよく利用していました。またここにはデパートではなく、スーパーがあったので、日用品の購入によく利用しました。大丸ピーコックや今はダイエーになっている忠実屋などがあったと思います。

 ほかによく利用したのがオデオン座と言う名画座でした。だだっ広くて汚いいかにも場末の映画館と言う感じの映画館で、時々小田急が通過すると騒音とともに館内が揺れました。ビデオもないそのころ、低料金三本立ての古い名画や封切りすぎた映画をよく見に行きました。

 ある春の日だったと思います。井の頭沿線に住む友人haraと下北沢で落ち合って二人で商店街を歩いていたら、どこかの店先からメロディフェアーが流れてきました。ビージーズだったかインストルメンタルだったか忘れましたが、春らしい浮き立つようなメロディでした。

 その音を聞いたらそれまで抑えていた、ステレオが欲しいと言う気持ちが収まらなくなって、その数日後、秋葉原までステレオを買いに行きました。 OTTO(三洋)のポータブルステレオ、生まれて初めてのステレオでした。それからようやくジャズやクラシック、ポピュラーなどのレコードを聞く生活が始まるのでした。

 

Image0001.JPG季刊ジャズ批評別冊「ジャズ日本列島」51年版(1976年)より


 1970年代後半から1980年代にかけて、下北沢は吉祥寺と並んで、シモキタ、ジョージなどと呼ばれ、若者に人気のある街として盛り上がってましたが、1970年代の初めの頃は、まだまだ小さな街で商店街を少し歩くと住宅街でした。

 ただ、長くはないけれど両側にぎっしりお店が建ち並んだ通りがいくつも入り組んでいました。線路沿いには市場もあったように思います。

 余談になりますがそのころは、まだ本多劇場などはなかったはずなのですが(資料によると1982年創設)、上の地図を見ると本田劇場とあるので驚きました。多と田が違いますが場所的には近いのでよけい驚きです。

 私は初めてステレオを買ったくらいですからまだジャズはかじり初めの頃でした。その後、生活圏が中央線に移動し、シモキタよりジョージに行くことが多くなります。

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 ジャズ喫茶「マサコ」を知ったのは、梅ヶ丘に住んでいた時だったか、中央線沿線に引っ越してからだったかはっきりしません。

 南口の商店街から少しそれ、住宅街に入り込んだ角にありました。「ジャズ日本列島」によるとその頃、下北沢には10軒あまりのジャズ喫茶があったようですが、覚えているのは「マサコ」だけです。

 店内は、ほかのジャズ喫茶とはちょっと違った自由な雰囲気がありました。たぶんおしゃべり自由で雑多な印象のインテリアのせいではなかったかと思います。ママさんがユニークな感じの人で、にこにこ愛想を振りまきながら客席を回っておられたような記憶があります。

 そういうお店だったからか、「ジャズ日本列島」にもお店の情報がほとんど載っていません。地図上に印があるだけです。また、残念ながらマッチも手元にありません。

 ただ、「ジャズ日本列島」の1995年版には、データーが載っていました。オーナー名が男性なので、オーナーが変わられたのかと思ったのですが、共同経営者の方だそうで、その辺の事情はこちらに詳しいです。竹中直人、西田敏行、柄本明がよく通われていたそうです。いずれも「マサコ」にふさわしい個性派俳優ばかりでこれまた驚きです。

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アナログプレーヤー:トーレンス320mk2/パワーアンプ:サンスイB2301L/コントロールアンプ:サンスイBASIC AUDIO LEGACY VINTAGE C2301/スピーカー:JBL4343B 「ジャズ日本列島」1995年版に載っていた「マサコ」のラインナップ。            

 ニューヨーク在住の画家、  FUCKINTOSH66さんが東京におられたとき、「マサコ」によく通われていたそうです。その FUCKINTOSH66さんから「マサコ」閉店の知らせを聞いたのは、もう二年も前のことだったでしょうか。

 マッチも資料もほとんどなく、私の曖昧な記憶だけが頼り、これと言ったエピソードも思いつけず、あまりたいした紹介にならないなぁと思っていましたが、今の世の中、便利になったものです。先日、YouTubeを何となくうろついていたら、「マサコ」の周りの風景や店内を記録した動画に出くわしました。アップされた方に感謝です。

 


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酒場ナルシス [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 そのお店の名前は、ひらがなだったのかカタカナだったのか、例によって古い記憶はいつも曖昧です。マッチのデザインの文字からひらがなと思い込んでいたのですが、最近見つけた資料ではカタカナになっていました。

 そういえば細く暗い露地の途中に、うっすらと「ナルシス」と言うカタカナ文字の看板が灯っていたような、その看板を確かめないと思い切って中に入れないようなそんな露地だった気がします。

なるしす a.JPG 辻まことがデザインしたナルシスのマッチ

 1970年代初めの話です。私は大学をやめて上京していました。そのころ遊び仲間に、高校の同級生で東京の某大学生だったharaがいました。彼は卒業後もしばらく都内で働いていたので、ほぼ4年ほど、付いたり離れたりしながら二人でよく遊びました。

 私は、どちらかと言うと引っ込み思案で慎重派、お酒もあまり飲めない方でしたので、彼がいなかったら私の東京生活はかなり単調なものになったと思います。私が開拓するのはせいぜいジャズ喫茶か喫茶店、名画座くらいでしたから。

 それに比べると、haraは物怖じしない性格で、どこへでも好奇心の赴くままに首を突っ込んでいきました。どこからそんな情報を仕入れてくるのか、当時まだ珍しかったハンバーガー店、美しいママさんが一人でやっている小さなスナック、バニーガールがいる華やかなお店などを開拓してきては私を誘うのでした。

 そんな彼がある日、面白いところを見つけたと誘いに来ました。場所は新宿歌舞伎町です。ジャズ喫茶や映画館に行く以外、あまり縁のないところです。しかも私は昼間専門でした。

 そのお店はコマ劇場とジャズ喫茶「木馬」あたりの入り組んだ狭い路地の途中にありました。扉を開けると左手にカウンターがあり、右手にボックス席、20坪あるかないかの空間です。照明を落とした室内は、けばけばしさのない落ち着いた雰囲気でした。

 初めて行ったとき、私たちは二十歳そこそこの子供、間違って入ってきた客と思われたのか、あまり相手にされなかったような気がします。カウンターの中には、細いきれいなママさんとママさんのお母さんがおられました。

 二人ともそれほど豊かでもなかったので、頻繁に通えたわけではありませんが、半年に一回くらいの割合で、10人も座ればいっぱいになるカウンター席に腰掛けました。新宿歌舞伎町の夜のお店、しかもスナックとかキャバレーとかではなくて落ち着いた大人の雰囲気がするバーと言うだけで、私たちは結構舞い上がっていたと思います。

なるしす b.JPG 裏面?

 いつの間にか、ママさんのお母さんは見かけなくなり変わりに女性が一人手伝いに入っておられました。名前を失念してしまったのですが、レイ子さん(とりあえず仮名でそう呼ぶことにします)とかそんな名前だったと思います。落ち着いた大人の女性でした。

 そのうちママさんもあまり見かけなくなって、私たちは一人でお店に出ておられたレイ子さんとお話しすることが多かった気がします。まだ社会経験も浅い私達を相手に、どんな話をしていただいたのかもうほとんど忘れてしまいましたが。

 お客は常連のサラリーマンの人が多かったでしょうか。ちょっと正体不明の感じの方もいた気がしますが、総じて品の良い客筋だったと思います。そのころすでに有名だった、唐十郎さんが以前来ておられたことがあったそうです。

 さすがに歌舞伎町のバーです。時々ギターを持った流しの人が入ってきたりしていましたね。私はここで初めてブルーチーズというものをいただきました。他の人が注文しているのを珍しがったら、レイ子さんが「ブルーチーズも知らないなんて」と出してくれました。

 あるとき常連らしき隣席の客とお喋りしていて、話がなぜか男色の話になり妙に盛り上がってしまい、当時それ系で有名だった西口へ行こうと誘われたことがありました。レイ子さんが引きとめたので、この話はお流れになったのですが。

 多分、最後に行ったのは、haraが北海道に転勤するのでお別れに行った時だと思います。レイ子さんが、それならこれからはお宅が来てくださいね、と私に向かって言われたのに、その後あまり行けなかった気がします。24歳ころのことです。

 一度satoを連れて行ったのはその後だったかその前だったか、お店に入ってカウンターの一番奥をすすめられました。お久しぶりですねとか、今日はお連れさんが違うんですねと言われた記憶があります。連れが女性じゃないのでかまわない話ですが、そういえばそこで女性客の姿はあまり見かけなかった気がします。 

 

ナルシス.jpg こちらが現在のマッチのデザインらしいです

 

 田舎に帰ってから、上京したおりにそれらしき露地を歩いてみたのですが見つけられず、「木馬」などと同じようになくなってしまったと思っていたのですが、この間、ネットをうろついていたら、その後の消息がわかりました。

 場所を移転して、酒場「ナルシス」はなんとジャズ喫茶「ナルシス」になっているのだそうです。地図を見ても以前の店と同じ通りなのか違うのか判然としません。ただ、以前は一階で今とは露地の反対側にあったような気がします。

 名前が同じで違う店ではないかとも思いましたが、古い方のマッチが同じだったので間違いありません。このマッチのイラスト、独特の味がありますが、辻まこと作なんだそうです。

 若いころ、友人haraと一緒に行った酒場ナルシスはかつて田村泰次郎の小説などに登場した、戦前からある文壇バーなんだそうです。二十歳そこそこの私たちにはかなり背伸びしたお店だったようです。

 いつごろから移転してジャズ喫茶になったのか、記録がありません。私が持っているジャズ批評別冊「ジャズ日本列島1995年版」を見ると、今まで気づかなかったのですがジャズ喫茶「ナルシス」載っていました。

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 ママはもちろん、酒場「ナルシス」時代と同じ川島夕子さんです。「ジャズ日本列島」の記事によると、1994年当時のオーディオシステムで10年間鳴り続けているとあるので、少なくともジャズ喫茶としての移転開業は1984年以前と言うことになりますね。 

 かつて私が足しげく通ったジャズ喫茶の大半が今はもうなくなっていて、私が過ごした東京も過去となって久しいのですが、そのころに通っていた印象的なお店「ナルシス」が、今はジャズ喫茶として続いていると思うと、ちょっとうれしくなります。

 ママさんは元気そうです。レイ子さんは今、どうしているのでしょう。近かったら飛んでいって懐かしい話をしてみたいものです。いつか上京する機会があったら、訪ねて見たいスポットがまた一つ増えました。

 

 今夜のYouTubeは川島ママさんが「ジャズ日本列島」のアンケートで愛聴盤の一枚として答えておられるリー・モーガンサイドワインダーです。

 


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ジャズ喫茶 吉祥寺① [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 昨日は1日、激しい雨に見舞われました。今日、雨は止みましたが空はどんより曇り空、外にいると風が冷たいので驚いてしまいます。冬ほどではないにしても、4月下旬、ゴールデンウィーク直前の気候にはとても思えません。

 このところジャズ喫茶の記事が書けていません。今日は久々にジャズ喫茶の話でもしようかと思うのですが、残っているジャズ喫茶のマッチは、記憶が曖昧になっていたり、ほとんど記憶が残っていないものが多くて困ります。

 とりあえず、おしゃれでファッショナブルな街として当時から若者に人気があった吉祥寺から。

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「ジャズ日本列島」に掲載されていた広告

 

 1970年代はジャズ喫茶が花盛りの時代でした。当然、吉祥寺にもたくさんのジャズ喫茶がありました。手持ちの資料、昭和50、51年版の「ジャズ日本列島」に載っているだけでも12店舗ありました。

Image0001.JPG 吉祥寺のジャズ喫茶はほかの地域の店に比べて、音響に凝った店、インテリアや調度などに意匠を凝らしたおしゃれな店が多かったような気がします。それだけ競争が激しかったのかも知れません。

 残っているマッチなどを調べると私は半分ほど入っているようです。その中で二つほど、ちょっとした思い出話があるのですが、残念なことにそれがどの店でのことだったのか思い出せません。

 「ジャズ日本列島」50年版の方には、訪れたときの印象を簡単にメモっている店があるので、そのメモを元にちょっと紹介してみようかなと思います。

 

 

 アウトバック

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 吉祥寺北口にあり、オーナーは野口清一という方です。昭和50年当時、まだ出来て3年目だったようです。お喋り禁止の硬派な印象のジャズ喫茶でした。壁は一面緑色で店内は広いと私のメモには書いてあります。

 「ジャズ日本列島」に記載されているオーディオは、アンプがマッキントッシュ・C-28+MC-2300、レコード再生がテクニクス・SP10+SM3009+シェアーM75、(翌51年版では、トーレンス・TD-125×2に変更されています)スピーカーがアルテック・A-211+291-16A+311-90と言う構成だったようで、音はそうとう迫力がありました。

 当時クロスオーバーなどとも言われていた新しいジャズなども積極的にかけるお店だったようですが、私が行った1975年ころに新譜として流行っていたマイルス・デイビスの「ゲット・アップ・ウィズ・イット 」やキース・ジャレットの「 ザ・ケルン・コンサート」などがかかり、ほかにもリクエストなのかソニー・クラークの「クール・ストラッティン」やビリー・ホリディなどもかかっていました。

  このお店は、現在もあるようですが食事とお酒のおしゃれなお店に変身しているようです。場所も移動していますね。

 


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「ベイシー」は霧の中 [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

  霧は、雨の降ったあととか、急に気温が下がった時などの湿度が高い時に発生するのだそうです。そう言えば、霧の出る頃は暖かい日が多い気がしますし、冬のピリピリした冷たさではなく、ぼうっとした空気感があります。

 今年の冬は、今まで比較的暖かな日が多く、湿度も高かったのでしょう。朝方の冷え込みで何回となく、霧が発生しました。

 ところが昨日あたりから急に冷え込み出しました。今冬いちばんの寒波が来ているそうで、今までの暖冬ムードがいっぺんに吹っ飛んでしまいました。冷たい風が吹き、霜が降りたり氷が張ることはあっても、もう霧は発生しそうにありません。

 

フユイチゴ01.JPGフユイチゴに霜が降りて、砂糖をまぶしたようです。

 凍てつく寒さのせいで霧は降らなくなりましたが、代わりに私の頭の中がずっと霧に覆われています。歳を取ってくると、古い記憶があいまいになってしまったり、あるいは長い間に記憶がどこかでねじれてしまって、すっかり勘違いして覚えてしまっているなどと言うことがあるようです。

 私の中で前から謎になっていて、真相が霧に包まれている事柄があります。それは昔のことなのですが、ジャズ喫茶「ベイシー」へ行ったことがあるのかないのか、と言うことなのです。

 「ベイシー」はジャズ喫茶としては老舗中の老舗、今も健在で古いジャズファン、オーディオファンでは知らない人はいない有名なお店です。

 若い頃、私は「ジャズ日本列島」を頼りに、東京を中心に旅をした東北や北海道でも、出来る限りジャズ喫茶を歩いて回りました。

 東北地方は、私の記憶では、仙台、と岩手県に行っています。仙台市では、MALというお店と、カーボと言うお店に行ったことが記録に残っています。

 当然、岩手県一関市にある「ベイシー」にも行ったつもりでいたのですが、あるとき「ジャズ日本列島」を見かえしていると、盛岡市にあったジャズ喫茶「リッチ」と言うお店のことは、メモ書きが残っているのに、肝心の「ベイシー」のことは印が付けあるだけで何も書いていません。

 その印も行ったという印なのか、これから行きたいと言う印なのか、付けたのは間違いなく私なのですが、わかりません。

 マッチも「リッチ」はあるのですが、「ベイシー」はありません。そうして考えてみるとだんだん不安になってきて、私が行ったと思い込んでいる記憶の店は、「ベイシー」ではなく、実は「リッチ」だったのではかったのかと思えてくるのです。

 

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 私の記憶にある東北の街はすでに日が暮れていました。街中に小さな川が流れまばらな商店がありました。回りが暗いこともあって、「ジャズ日本列島」の簡易地図ではさっぱり要領を得ません。商店街の一角にあるレコード店に入って、店員さんに道を聞きました。 

 そのとき、「ベイシー」の場所を聞いたのか、この近くにジャズ喫茶はないかと聞いたのか覚えがありません。覚えているのは、応対してくれた店員の女の子がなかなか可愛い子だったと言うことでした。しかも岩手訛りは独特の愛嬌があってめんこいのでした。

 彼女は客でもない流れ者の私に、親切に道順を教えてくれましたがけっこう複雑だったので、いっそ一緒に行きませんかと、声をかけたいほどでした。

 結局まだ仕事中の彼女に配慮?して、声はかけずに一人で言われた道を辿りました。町はずれだったと思います。そのお店は暗がり露地の向こうにたたずんでいて、珍しく玄関のある一軒家だった気がするのですがかなり曖昧です。レンガの記憶もあるようなないような・・・

 建物のたたずまいや中の様子が、その後雑誌等で拝見する「ベイシー」の様子にすごく似ているような気がするのですが、この辺は脳があとから見た情報とすり替えている可能性もあるのであまり信用できません。中は広くて大きなスピーカーがありましたが、客は少なかったと思います。

 東北で得た二つの強い記憶―――レコード店の店員さんと「ベイシー」の印象―――がごっちゃになって一つになってしまっているのでしょうか。

 街中に川が流れている夕闇の街は、盛岡市だったのか一関市だったのか、地図を見てみると、どちらの街にも川があって、確認の手だてにはなりませんでした。30年余り前のことというと、自分のことでありながら、半分以上他人のようです。私の中でジャズ喫茶「ベイシー」は霧に包まれたままです。

 

 と言うわけで、今日のYouTubeは御大カウント・ベイシーです。コンサートも一度行っているのですが、それはまた、今度のお話と言うことにしようと思います。

 

 楽しさが伝わってくる演奏ですね。


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発見~ピーター・キャット [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 在庫が全くなくなったわけではないのですだが、そういえばこの頃ジャズ喫茶ネタを書いていないなと気づかせてくれたのが、前々回のdorhamさんのコメントでした。

 dorhamさんからいただいたコメントにはジャズ喫茶の事と国分寺のことが書かれていました。それでジャズ喫茶めぐりをしていたときに行ったのは国分寺だったか国立だったか気になりました。確かめるために例の「ジャズ日本列島」を久し振りにひもといてみました。

 「ジャズ日本列島」によると当時(1975年)国分寺には二軒のジャズ喫茶があったようです。そのうちの一軒のジャズ喫茶のオーナーの名前を見て、思わず固まってしまいました。

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 「ピーター・キャット」が店名です。赤く囲んでいるのは私がそこに行ったしるしです。右上に下手な字でメモっているのは、行った日付とその時のコーヒーの値段ですね。

 それはよいのですが、店名の横のかっこの中にオーナーの名前が記されているのですが、見て下さい。なんとあの村上春樹さんではありませんか。氏が小説家になる前ジャズ喫茶をされていたのは有名な話ですが、ここがそうだったとは今の今まで全く知りませんでした。

 村上春樹というお名前もペンネームだとばかり思っていたので、まさかそのままこの本に載っているとは思いも寄りませんでしたし、同時代でありながら伝説上のこととなると何となく、もっと昔のことと思っておりました。

 本や何かで読んで、私なりに村上春樹さんのお店のイメージを勝手に作り上げていました。それはいつか行ったことがある荻窪だったか阿佐ヶ谷だったかの植物に囲まれた自然な感じのする喫茶店で、そこで静かにレコードをかけている村上春樹さんを想像さえしていました。

Image0020.JPG 左が「ジャズ日本列島」に掲載されていた地図です。かすかに線路沿い(高架だったか?)を少し歩いた記憶があります。図では地下になっていますが記憶はもうありません。

 もう一つの資料をひもときました。そこには私が行ったお店の印象、簡単な感想などが書き込んであります。で、「ピーターラビット」はありました。

 

以下私の文です(多少読みやすく直しています)

 『ジャズ喫茶と言うより普通のお店にジャズが流れていると言う感じ。音量は中くらいでお客の話し声も聞こえる。カウンターが大きくて、壁際にはテーブル二つとピアノが一台ある。店内レイアウトもあまりジャズ喫茶らしくない。JBL、L-88は入り口の壁の天井近くにかかっていて、なかなか快適な音を奏でている。インテリア、調度品もしゃれている。客はおしゃれな感じのする女性が多かった。』

 これだけです。マスターがどんな人だとかは書いてないのが残念ですが、この頃村上春樹さんはまだデビュー前だったので無理もありませんが、せめてどんな曲がかかっていたかくらいは書いておいて欲しかった気もします。

 メモしているくらいなので印象に残るお店だったのだと思います。細長いあまり大きなお店ではなかったような、スピーカーもジャズ喫茶にしては小ぶりだったようなかすかな記憶があるのですがあやふやです。ただ、何となく赤とかオレンジ色の印象があるのですが、ほかのお店とごっちゃになっているかもしれません。

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 たぶんないだろうなと思いながら、古いマッチ箱が詰めてある箱の中を捜してみましたが、やはり「ピーター・キャット」のマッチ箱はありませんでした。変わりに村上春樹さんが学生時代(1970年代始めの頃だそうです)アルバイトしていたジャズ喫茶、水道橋「SWING」のマッチ箱を見つけました。

 私がここへ行ったのは1976年のことなので、村上さんはすでに「ピーター・キャット」を開いておられたと思います。

 急に村上春樹さんのジャズ関係の本が読みたくなって図書館で借りて読みました。この二冊、前からあるのは知っていたのですが、初めて読みました。 

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 一冊目の一番最初のページにチェット・ベイカーが取り上げられているのはちょっと意外でした。でも、二冊全部読んでみると何となくらしいなと思えました。


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夜が明けたら [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 久し振りにジャズ喫茶のお話です。まだまだ紹介していないジャズ喫茶あるのですが、マッチ箱が無かったり、思い出と結びつかなかったりでついさぼっていました。

 ところが先日、と言っても去年のことですが、FUCKITOSH66さんの記事つながりで、あるお店を思い出しました。しかもそのお店には強烈な思い出があります。なぜこのお店を忘れていたのか、多分マッチ箱がなかったこと、それからあまり思い出したくない事柄のせいだと思います。

 そのお店は「アケタの店」と言いました。オーナーは明田川荘之さん、お店をオープンした当初は大学生でミュージシャンでもあったそうです。ときおりジャズ誌でもその過激な発言を目にすることがあり、なんとなくアバンギャルドな雰囲気の方と想像していました。お店もジャズ喫茶としては他のお店と一味違った感じだったような気がします。

 店は西荻窪北にありました。私も当時(1970年代中頃)その近くに住んでいました。私のアパートの近くには故丹波哲郎さんの豪邸があり、確か「アケタの店」の近くにはキャンディーズの蘭ちゃんの実家があったような気がします。

 新宿や吉祥寺のお店には電車賃を払ってでも行くのに、歩いて行ける「アケタの店」には、数回しか行っていなかったと思います。

 

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 ある時、その「アケタの店」で浅川マキさんのコンサートがあり、知り合いの女子大生さんと一緒に行くことになりました。なぜそういう話になったのか忘れてしまいました。ちょっとアバンチュールを楽しんでみようと言うことだったのかもしれません。

 落ち合って「アケタの店」に直行と思っていたら、やはり同じ西荻北に住んでいる彼女のアパートに立ち寄ることになって、展開が違った風になりました。彼女は妹さんと一緒に住んでいたのですが、そのときは妹さんはいなくて私と二人きり。しかし、元来融通が利かない私は、コンサートの始まる時間ばかり気にしていました。

 結局、何事もなく二人は開演直前に「アケタの店」へ。資料によるとお店は吉野家ビルBFとなっているのですが、私の記憶では一軒家の一階、しかし現在もその場所なので私の記憶違いだと思います。

 店内は狭くて暗かったことしか覚えていません。コンサートの演出として黒一色に統一されていたのだったかどうか。ステージの前に椅子やテーブルがかためられ、適度にその後ろの観客と距離が保たれていました。

 浅川マキさんの出で立ちもレコードジャケットでおなじみの黒のドレス一色でした。長い髪、青白い顔、存在感が際立っていましたね。彼女は「かもめ」「夜が明けたら」など私でも知ってる歌を独特のけだるい調子で歌いました。

 狭い客席はすべて立ち見で満員電車並みの混みようでした。みんな、おしくら饅頭のように体をくっつけあって浅川マキさんの歌を聞き入っていました。

 私の右横には、Tさんのふくよかな体があります。しかし、先ほどから私の左側でなにやらもぞもぞ動く気配がします。はじめ気のせいかと思っていたのですが、どうやら私の身体を触っているようです。しかもその手はやがて私の尻も撫で始めました。

 隣のTさんと触る相手を間違えているんじゃないかと思いました。その手の持ち主を見やると、華奢な感じの若い男でした。「やめろ」と言うと「いいじゃない」とニタニタ笑いながらなおも触ってきます。

 もう歌どころではありません。男の方に向き直ってその手を払い、「やめろよ」ともみ合っていたら、とうとう浅川マキさんに、「そこの人うるさいよ」と指さして叱られてしまいました。

 決して彼女の歌を邪魔する気はなかったので不本意な叱責でした。思わず、痴漢男を指さして弁明しようとしたのですが、彼女の凄みのある目ににらまれるとそれ以上何も言えませんでした。

 その後その男は静かにしてくれたのか、よそへ行ったのか忘れてしまいましたが、おかげで私にとってはさんざんなコンサートとなりました。

 何も知らないTさんは何のことかわからず浅川マキさんに叱られた私を怪訝な顔をして見ました。彼女はスタイルも良くてけっこう目立った感じの女性だったのですが、その彼女ではなく私が痴漢にあうとは想像も出来ないことでした。

 もちろんこんなことは生まれて初めての体験でこれが最初で最後でした。普通その道の人たちは互いに惹きつけ合うものがあると聞きますが、彼は何か勘違いしたのでしょうか。

 「アケタの店」と言うと、こんなつまらない出来事が思い出されてしまいます。お店は今も健在で明田川さんはお店も演奏も、ますます元気に続けられているようです。


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jazz spot YAMATOYA [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 いつも思い出のジャズ喫茶のお話ばかりでしたが、今回は今も頑張っておられる現役のジャズ喫茶、創業40年近い京都、熊野神社近くにあるYAMATOYAさんです。

 前回来たのは昨年春です。その後何回か来ているのですが、どういうわけかいつもお店の定休日の水曜とパッティングしてしまって、ようやく今回久し振りに訪れることが出来ました。

 

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 と言っても、あちこちであれこれ用事を済ませ、やっと辿り着いた頃、露地の入り口は早い秋の夕暮れが迫り、看板に灯が灯っていました。

 まだ2回目なのに、入っただけで懐かしさに包まれます。フロアには数組の客、奥のカウンターにも一組、そしてカウンターの中にマスター夫妻、前回は奥さんだけでした。私はカウンターの一番端の席に腰掛けました。

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(店の奥にあるアンティークなオーディオコーナー、数え切れないレコード群と夢のようなオーディオ装置です。この写真は、前回来たときママさんに許可を得て撮らせていただいたものです)

 街中を歩き回って来たので、席に着いたときはほっとしました。マスターがその場で引き立てのコーヒーを入れてくれます。おいしいコーヒーを飲みながら、Jazzに耳を傾けます。

 かかっていたアルバムジャケットは見たことがないものでしたが、典型的なハードパップの演奏です。お店自慢のバイタボックスのスピーカーがアンティークなアップライトピアノの両脇で暖かみのある音を奏でていました。

 座ったカウンターがこの前よりスピーカーよりだったせいか、音はこの前より大きくはっきりと感じられました。とくにベースの音が一音一音しっかりしていて、つま弾く音に粘りと心地よい伸びが感じられました。聞いていて気持ちよくなる音です。

 一時、お客が私一人になり、ママさんも引き上げられたのでマスターが話しかけてこられました。マスターとは初めてなのに、同世代(たぶんマスターの方が上なのでしょうが)同じジャズ仲間、ずっと昔からの知己のような気がしました。

 昨年来たとき、露地を入っていったところで、デジャブのように前に来たことがあると感じました。もう30年ほど昔の話です。その時の記憶が正しければ、そのお店は2階建てでした。それで今回そのことをマスターに聞いてみたら、やはり昔は二階もやっていたそうです。二階を閉めてからもう20年近くなるのだそうです。

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 曲はフィニアス・ニューボーン・JR.「A World Of Piano」に変わっています。以前から欲しいと思いながら、まだ手に入れていないレコードです。聞いたらよけい欲しくなりました。

 マスターとお喋りをしながら、もっとゆっくりしていたかったのですが、帰る時間が迫っていたので、フィニアス・ニューボーン・JR.の演奏が終わるのを待って、席を立ちました。

 

 YAMATOYAさんのホームページはこちらです。

http://www.jazz-yamatoya.com/


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「オーブレー」 [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 若い頃、まともな仕事の下積み時代に耐えかねて、アルバイトに身をやつしていた時期がありました。今で言うフリーターの走りのようなものですが、当時はまだそんな言葉もなくて、世間の一部ではそういう人種のことをアルバイターなんて呼んでいることがありました。

 そんなアルバイター時代に、あるアルバイト先で知り合った関さんと言う方がいました。すごくまじめな方で、仕事も丁寧でみんなから信頼されている人でした。

 私も入ったときに仕事を教えてもらったりしていたので、てっきり社員さんだとばかり思っていたのですが、なんと彼は私と同じアルバイトでした。但し、私などとは違って、放射線技師の勉強をするためにアルバイトをしていたのでした。

 歳は私より一つだけ上だったのですが、落ち着いておられたので3つも4つも上の人に思えましたし、まわりからもそんな風に見られていました。

 固すぎるくらいまじめ一方の人だったので、仕事中は眉間に皺を寄せて難しい顔をされていることが多かったんですが、休憩の時などになると、寡黙なところは変わらないのですが、顔つきがぐっと柔和になって面白かったですね。あまり自分から話したりする方ではなかったのですが、みんなの会話をにこやかに聞いていると言った感じの方でした。たまに見せる笑顔がなんとも人なつっこかったですね。

 その関さんがある日の仕事帰りにジャズ喫茶に連れて行ってくれと言いました。関さんとジャズ、妙な組み合わせですが、喜んで案内することにしました。

 少しおしゃべりも出来てお酒も飲めるような店が良いと言うことだったので、私は「オーブレー」という店に案内することにしました。

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 「オーブレー」は以前に紹介しました「ビアズレー」の姉妹店で、中央線中野駅南口にありました。狭い露地に面したビルの地下でした。

 黒づくめで硬派なイメージの「ビアズレー」とは違って、「オーブレー」は明るくてちょっとしゃれた感じの店内だったと思います。

 お店に入ったとき、外はまだ明るかったので、夏だったんだと思います。一番奥の席に陣取って、ビールとポテトチップスか何かのおつまみを頼みました。

 関さんはこういうお店が初めてらしく、しばらくは物珍しげに店内を見回したりしていましたが、ある程度落ち着くと私に何かリクエストをしないのかと言いました。

 こういうお店でしかも、お酒を飲みながら聞くとなれば、やはりボーカルですが、あまり知りません。それでお気に入りの「ヘレン・メリル・ウイズ・クリフォード・ブラウン」をリクエストすることにしました。

 

  有名な「YOU’D BE SO NICE TO COME HOME TO」のところで、この曲がとくに好きなんだというと、彼はお喋りをやめてまじめな顔で耳を傾けてくれました。

  その後、ほかにどんな曲がかかっていたのか記憶がありません。私たちはそこで仕事のことや将来のこと、アルバイト先の女の子のことなどを話したような気がします。ふだん寡黙な関さんも、お酒が入るとけっこう饒舌になっていました。

 関さんは放射線技師の資格を取得して勤務先も見つかったとかで、近いうちにアルバイトを卒業すると話してくれました。そのあとで「君もいつまでもふらふらしていないで・・・」などとは言わないで、「君はどうするの」と一度聞いただけでした。

 どれだけの時間そこにいたのでしたか、そろそろ帰ろうと言うことになったとき、すっかりお酒が回った関さんは、にこにこしながら、もう一度さっきの曲をリクエストしてくれないかと言いました。

 再び、ヘレン・メリルのハスキーな声がYOU'D BE SO NICE TO COME HOME TO~と小気味よいテンポで歌い出すと、関さんはその曲がずっと前から彼のお気に入りの曲だったみたいに、嬉しそうな顔になってリズムを取り出しました。

 後年、この曲がウィスキーだったか紅茶だったかのコマーシャルで、TVに流れたことがありました。関さんはどこかでコマーシャルを聞いて、あのときの曲だと思い出してくれたでしょうかね。


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セピア色の記憶~古いノートから [マッチコレクション(ジャズ喫茶)]

 古いノートを整理していたら、若い頃、休日を利用してジャズ喫茶巡りをしていた日記が出てきました。約30年あまり前、季節も今頃です。ちょっと抜粋---

conv0010.jpg 午後からは予定通りジャズ喫茶巡り。手元には「ジャズ日本列島」と言う冊子がある。これには全国のジャズ喫茶の所在地の住所、地図、所蔵レコード枚数、オーディオシステムなどか記載されている。これさえあればどこへ行ってもジャズにはぐれることはない。

 今日はまず、池袋に行く。新宿、渋谷、池袋、銀座、上野と東京には大きな街がいくつもあるけれど、その中ではあまり行く機会の少ない街、僕にとってはなじみの薄い街だ。

 立教大学前のジャズ喫茶「Free Port」。ミッシェル・ルグランの曲をマイルス、コルトレーンが演奏するレコードがかかっている。店はモダンな作りで、フロアーは地上より少し下がった半地下になっている。

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 席から入り口を見上げると、その洋風ドアのガラス越しに明るい陽射しの中、木々に囲まれた立教大学の校舎が見える。窓があることと、そこから覗く外の世界の明るさが、ジャズ喫茶らしくなくて新鮮に感じられる。

 駅に戻り、山手線でひと駅先の大塚で降りる。唯一残されている都電に初めて乗った。黄色のボディに茶色の線の入った路面電車は家々の庇の間を縫うようにして走る。乗っているのは主婦と子供、それに老人が多い。

 四ヶ原4と言う駅で降りる。駅と言ってもコンリートが少し盛り上がっただけのホームがある停留所、表示板だけが駅であることを示している。

 回りは商店がぱらぱらとあるだけの住宅街。何となく東京と言う気がしない。はたしてこんな所にジャズ喫茶あるのだろうかと思いながら「ジャズ日本列島」に記載された地図を頼りに歩く。

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 普通の民家の間にジャズ喫茶「厭離庵」はあった。看板や店の名前はそうなっているけれど、一見してあまりジャズ喫茶らしくない。店内は明るく開放的で広い。普通の洋風食堂とあまり変わらない。メニューも食堂並みに種類が多い。ジャズはかかっているけれど、音はあまり大きくはなくて、イージーリスニングの変わりにジャズが流れているといった感じ。オーディオシステムも僕の持っているものとさして変わらないように見えた。

 同じ都電で今度は日暮里へ向かう。日はすでに傾き始めていて、偶然だけれど日の暮れに日暮里に着いてしまった。日暮里も初めて訪れる街だ。駅前は少し高台になっているのだろうか。なんとなく空間が広くほかの街のようにせせこましく騒々しくない。左手に公園のような寺があり、道路に車は少ない。

  緩やかな上り坂、右手に史跡らしい黒い寺の影が二軒。坂を上り詰めると、道は緩やかに下り始める。人々は道路の真ん中をゆっくり歩いている。

 坂の終わりは石段になっていて、その先は何やら取り止めのない広場のような交差点になる。真っ直ぐ行くとようやく狭い道幅の両脇に店が並んだどこでも見かける商店街が開けてくる。

conv0009.jpg 夕闇の中、「シャルマン」と言うジャズ喫茶はその石段の終わりの広場とも通りともつかないところにあった。

 ジャズ喫茶を捜して歩いたおかげで、ふだん知らない東京の街をあちこち見て歩くことが出来た。

 ちょっとした旅をしているような一日だった。

 

 

 

 

 


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