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ブルース [音楽(ジャズ)]

 たぶん今でもそうなのだろうと思うのですが、私が若かった頃も東京と言う街は若者が何かしらの夢を抱いて、或いは故郷を逃れるようにして集まってくる大都会でした。そしてほとんどの若者たちは、夢に描いた生活とはほど遠い、下町の路地裏じみたアパートの狭い一室で、世間に怨念を抱くようにして暮らしていました。

 もちろん、私もそんな一人でした。休日になると何のあてもないのに新宿の歩行者天国を歩き回り、せいぜいジャズ喫茶や名画座の暗がりの中に身を溶け込ませるのがやっとでした。

 その頃、少しばかり絵心があったので、小さなデザイン会社に勤めはじめていました。朝はそれほど早くはないのですが、夜は毎夜遅くなる仕事でした。

 午後の6時をすぎたころ、日本橋の大通りではサラリーマンやOLたちの群れが、華やかな笑顔を振りまきながら、地下鉄の駅に向かって家路を急いでいます。私はその群れにあらがうように、これから夜なべでする仕事をもらいに近くの印刷会社にいくのでした。

 家路に着く頃は、すっかりくたびれきっていました。地下鉄の窓に映る人たちの顔がみんな病人のように見えたものです。目はかすみ、肩やら背がばりばりに凝っていました。

 辿り着くようにアパートに戻って、もう何をする気力も沸かないのですが、どんなに遅くなり、どんなに疲れていても、そのまま眠ってまた次の朝を迎えるのが嫌で、必ずレコード片面のジャズを聞いて眠りにつくのが日課でした。

 夜更け、ボロアパートの壁は薄かったので、音は極力控えめにしていたのですが、やっぱり漏れるんですね。私がレコードをかけてしばらくすると、必ずお隣さんが打ち返してくるんです。ズン、ズン、ズン、ズン・・・・

 歌も楽器の音も聞こえてこないのは、お隣さんは私の部屋との間の壁を背にステレオを配置しているのでしょうか。低音のリズムだけが聞こえ、私にはそれがブルースのリズムのように聞こえました。

 隣人は寡黙な人でした。と言うか、私もアパートにいる時は夜寝るときと日曜くらいでしたから、ひょっとするとわたしの方がいるかいないかわからない存在だったのかもしれません。

 アパートの他の部屋の方と顔を合わせる機会もほとんどなくて、この隣人さんとも一.二回廊下ですれ違っただけだったと思います。大柄で黒縁眼鏡を嵌めた若い男性でした。

 ある日、それはたまたま私が珍しく早く帰っていた夜か、或いは土曜か日曜の夜だったかもしれません。いつも静かなお隣さんの部屋からぼそぼそと話し声が聞こえていました。太い関西弁の声の主は、年配の男性です。

 聞くともなく聞こえてくる内容では、どうやら年配者の声の主は隣人のお父さんらしく、わざわざ上京して息子さんに帰郷するようにと説得しに来ているようでした。

 それから一週間ほど経った頃だったでしょうか。朝出掛けるとき、隣人の部屋のドアが開け放たれていて、室内ががらんとしているのに気づきました。ああ、田舎に帰ったんだと思いました。

ジョン・コルトレーン6.jpg

 仕事に行くためにアパートの階段を下ります。階段の出入り口の左手は、アパートの共同のゴミ置き場になっていました。その頃は今のように何でも袋詰めしていなかった気がします。ゴミを入れるプラスチックケースの中は、隣人が捨てていった家財道具の荷物でいっぱいに溢れ返っていました。 

 ハンガーやプラスチック洗面器などの日用品に混じって、一枚のモノクロ写真のパネルが無造作に放り出されていました。ジョン・コルトレーンの肖像でした。そのそばに10号くらいの油絵が描かれたキャンバスが一枚やはり無造作に捨てられていました。キャンバスの絵は、お世辞にも上手いとは言えない代物で、暗雲漂う空を、ゴッホを思わせるようなうねるタッチで塗りたくっていました。

 その二つのゴミを見たとき、隣人とは一度も言葉さえ交わしたことがありませんでしたが、彼がこの露地奥のボロアパートの一室で何を藻掻いていたのか、何となくわかったような気がしました。


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プリウス

今晩は、プリウスです。
隣室からの「ズン、ズン、ズン、ズン」は同じ趣味を持つ空兵さんへの
励ましだったのでしょうか。「自分もいっしょだよ」と。

オーディオを再開して近隣でレコードを聴く人が皆無と知った時、時代遅れと孤独を感じました。機器達も30年選手がほとんど。
でも、PCを購入しインターネットを覚え見初めた「ブログ」にレコードのお話がいっぱい、今は寂しくありません。
ありがとう御座います。

by プリウス (2008-11-15 22:48) 

イチロ

ブルー・トレイン
夢を追いかけるのは本当に難しいものですね。
僕も理想と現実の狭間でもがき苦しんだ時期があります。
そんな頃のことをふっと思い出しました。
by イチロ (2008-11-16 06:53) 

mwainfo

何ともやりきれない遠い日の記憶ですね。
by mwainfo (2008-11-16 18:22) 

空兵ーS

プリウスさん
こんばんは
いつもお付き合いありがとうございます。

私の周りにも、オーディオに興味を持ったり、レコードを聞いておられる方、なかなか見つけられませんね。
私は、こちらのブログではありませんが、ブログで知り合った方から刺激を受けてアナログ回帰しました。同じ趣味、同じ思いの人たちを見つけ興奮したものです。
またyayoisibainuさんのように私と同じ機器を二つも持っておられる方があって、驚いたり嬉しかったり・・・
今も現役ではありますが、ジャズやオーディオの話をしていると、つい古い話になってしまいます。

by 空兵ーS (2008-11-16 21:03) 

空兵ーS

イチロさん
こんばんは
若い頃、そんな思いとともにオーディオやジャズがありました。
よいにつけ悪いにつけ、その頃のことがなければ、今の自分はありません。
今は、もっと純粋にジャズを含めた音楽が楽しめるような気がします。
by 空兵ーS (2008-11-16 21:08) 

空兵ーS

mwainfoさん
こんばんは

やりきれないと思ったことはないのですが、ただ、東京には私を含めてこういう若者がごまんといるんだろうなと思ったのがその時の正直な感想でした。
by 空兵ーS (2008-11-16 21:10) 

FUCKINTOSH66

まったく同じ状況の頃があったのを想い出しました
>辿り着くようにアパートに戻って、もう何をする気力も沸かないのですが、どんなに遅くなり、どんなに疲れていても、そのまま眠ってまた次の朝を迎えるのが嫌で、必ずレコード片面のジャズを聞いて眠りにつくのが日課でした。

ちょっとでも自分を取り戻したいって感じで、そんなふうにしてましたわぁ

お隣さん、同じアパートの住人、限りなく近い空間でそれぞれの人生模様。その方はいまごろどこでなにをされてるんでしょうねぇ
by FUCKINTOSH66 (2008-11-17 14:36) 

空兵ーS

FUCKINTOSH66さん
仕事だけにすべてを奪われたくないと言う思いありますよね。
ジャズのレコードを聞くことがその頃の私にとって唯一のアイデンティティーの主張だった、と言うと恰好いいけれど、単に意地のようなものだったのかもしれません。

お隣さん、どうしているんでしょうね。そんなことあったことも忘れて今頃、オジサンしているのか、或いは60歳前後になってきてその頃を振り返ることあるのか。
by 空兵ーS (2008-11-17 21:46) 

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