手塚治虫展 [その他]
空を見るともう秋ですね。今年の夏は、いつもの粘り強い残暑もなくて腰砕けのまま終わってしまいました。そして、気が付いたらもう9月も半ばです。今月初めての更新になります。
子どもたちの夏休みに合わせるように、「手塚治虫展」が7月12日から8月31日まで、滋賀県立近代美術館で開かれていました。開催を知ったのは7月でしたから、まだまだと思っているうち、いつの間にか残す期間が一週間を割ってしまって、夏休みの宿題を片付ける子供のように慌てて行ってきました。
県立近代美術館に行くのはすごく久しぶりです。美術館は文化ゾーンと言われる静かな森の中にあり、近くには県立高校や県立図書館、県立医大などがあります。館内に入るとアトムが角々で道案内してくれました。
手塚治虫といえば、私の世代はやはり「鉄腕アトム」でしょうか。昭和20年代から40年代にかけて「少年」と言う漫画月刊誌に連載されていました。
昭和2.30年代、「少年」は当時数種類あった月刊漫画誌の中で、一番人気があったかもしれません。「少年」を手にして、私が一番最初に見たのは「月光仮面」だったと思います。それから「赤胴鈴之助」「鉄人28号」「矢車剣之介」など人気漫画が目白押しの雑誌でした。私の中でアトムは4.5番目の順位だったような気がします。
因みにその頃私の愛読誌は「少年画報」でした。読みたい漫画の数では圧倒的に「少年」だったのですが、私はただ「まぼろし探偵」のためだけにこの雑誌を買ってもらってました。もちろん2誌も買ってもらえないので、「少年」を持っている子と見せ合いっこしてました。
脱線してしまいましたが脱線ついでに、古い話をもう一つ。テレビで最初に「鉄腕アトム」を見たのは、アニメではなく実写版「鉄腕アトム」でした。家庭にテレビがようやく入りだした昭和30年代頃のことです。外で遊んでいても、「鉄腕アトム」が始まる頃になると飛んで帰ってテレビの前に鎮座したものです。
それから数年後、1963(昭和38)年に国産初の30分テレビアニメとして「鉄腕アトム」がテレビ放映されました。展覧会の中でもオープニングテーマがエンドレスで流されていて、懐かしかったですね。
今、小中学校の運動会の季節ですが、私達が中学生の頃、「鉄腕アトム」のテーマ曲がマーチに編曲されて運動会で演奏されていたのを思い出します。
ついついアトムの話に力が入ってしまいましたが手塚作品には他にも名作が目白押しです。テレビアニメはテレビオリジナルの「ワンダースリー」、1965(昭和40)年、国産初の30分カラーテレビアニメ「ジャングル大帝」が印象的です。
さらに、「悟空の大冒険」「リボンの騎士」「どろろ」と続きますが、この辺になると1960年代も後半、私はすでに高校生になっていたせいか、記憶がやや曖昧です。アニメを見ていても「巨人の星」などスポ根ものを見ていた気がします。
1969年、大人向けのアニメ映画として制作された「千夜一夜物語」は、見ていないのですが、高校の体育祭の立て看板にこの絵を描いていたクラスがあって記憶しています。おませというか、背伸びしたかったのでしょうね。
手塚治虫の漫画作品はその後、子供向けのSFや冒険ものから、哲学的なものへと傾斜して行ったように思います。「ブッダ」「海のトリトン」「アドルフに告ぐ」「火の鳥」「ブラック・ジャック」そして性を扱った「ふしぎなメルモ」は異色です。
私は漫画好きだったので手塚作品、主だったものはだいたい読んでいると思うのですが、なにせ多作な作家、全ては読みきれていません。70年代は、音楽や映画と同様、漫画の世界も百花繚乱、充実した時期でした。その中で、手塚作品は深い迷路にハマり込んでいるような印象を受けた記憶があります。
手塚治虫はあの冒険SF漫画「鉄腕アトム」でさえ、アトムが学校に通うようになって、計算能力も運動能力も飛び抜けているためにかえって孤独感を味わうシーンよりも、世間はアトムの超能力ばかりをもてはやしていると落胆していたそうです。
その他、「火の鳥」や「アドルフに告ぐ」などだけではなく、アニメ化されたために娯楽作品に思える「ジャングル大帝」や「ブラックジャック」にしても、彼自身はその中に人生の意味を込めています。
手塚治虫は1928生まれ。私の両親とほぼ同世代です。当然、戦争をくぐり抜けた世代です。そして当たり前のことですが、彼の作品には戦争が色濃く反映しているように思えます。
彼は医学博士の資格を持ちながら、不安定な漫画の世界に飛び込んで行きます。その頃漫画といえば、まだ四コマ漫画とか貸本の漫画しかなかった時代です。
「赤本」と言う世界で、彼は次々とストーリー漫画を発表して頭角を表していきました。17歳ですでにヒット作を連発していたそうです。彼は漫画の世界の開拓者、先駆者でした。
そしてアトムやジャングル大帝など上質な漫画作品を書き続けるとともに、次はアニメの世界を切り開いていきます。不可能と言われたテレビアニメ番組を独特の工夫で実現にこぎつけます。
一つの同じ背景に手前の人物だけを動かして動きを表現したり、主人公たちの動作のセルを残しておいて使いまわしたりしてエネルギーと経費の節約に努め、国産初の30分テレビアニメ放映にこぎつけました。お陰で1960年代後半から70年代、午後6時、7時のテレビ番組、どのチャンネルを回してもアニメばかりだった気がします。
一つの分野がある一人の巨人、天才の出現によって、大きく発展することがあります。漫画、アニメ界において、手塚治虫はまさしくそういう存在だったのではないかと思います。
手塚治虫は1989年2月、胃がんのため60歳という若さで他界しました。この展覧会では彼の生涯に描かれた15万枚のマンガ原稿とアニメーション70点の中から170点の原画、資料、映像を厳選して展示されていました。
会場の最後で写真を撮ることが許されたブース
彼の創作の秘密が覗けるのではないかと、思わず机上に寄ってしまいました。
夏休みも最後、展覧会場はさぞ子どもたちでいっぱいと思っていたら、平日のせいか会場は思いの外静かで子供の姿はほとんどありません。途切れない程度の客の流れ、そのほとんどは私と同じか少し若いくらいの同世代でした。